ikeponの独り言
このコーナは不定期連載で管理人のつぶやきを掲載していくコーナーです。
Vol.1 ikeponが3代目管理人です。
▲▼▲異人たちとの夏▲▼▲
1997年6月、南房総に季節外れの台風が接近していた。6月だというのに南からの湿ったあたたかい風が、街を吹きぬけていた。この頃、布良(めら)の町には反町、竹野内がやってくるという噂が広がっていた。浜に行ってみると何か建物が建てられていた。そしてかれらはやってきた。当初は町の人と気軽に写真を撮ったり、サインをしたりしていました。
フジテレビのスタッフは安房自然村のホテルをひと夏借り切って宿泊していた。反町ら主演の5人は小杉設計さん(ダイヤモンドヘッドの設計士)の紹介で白浜の清都(きよと)という旅館に宿泊することになりました。ぼくは仕事もあり、休日となる木曜日と日曜日は時間があれば布良の浜へ行き、ロケを見学していました。ただし、見学者は張られたロープから出られず、カメラは厳禁ということで、きびしいガードマンが何人かいて見学者に目を光らせていました。カメラが見つかるとその場からの退場という罰則がありました。春子さんの子供が父親とタクシーに乗り込み、去っていくシーンでは、スタッフ、警備員が10人ほどで見学者のカメラチェックをするほど殺気だった雰囲気になってしまいました。
ではなぜ、ikeponは写真を撮れたのか?仕事上使っていた大望遠のカメラ、オリンパスのL5にコンバーターをつけて300ミリの望遠にして、ダイヤモンドヘッドから一番遠い砂浜に腹這いになってダイヤモンドヘッドの前の広海や海都を狙っていました。この写真は公開できないけど、ベンチ寄付のときに参加者の方にはプレゼントしましたね。去年、マイク真木さんに見てもらったときにも、マイクさんは「こんなの撮られてたのか」と話していました。ロケが休みの日はダイヤモンドヘッドの近くまでよって行っての写真撮影が許されました。ただし、ロープの中には入れない。7月に入り、夏休みには東京ナンバーの車がかなり入るようになりました。細い布良の道は見たこともない交通渋滞に見舞われました。全国から集まってきた女の子たちは、日陰のない潮音の浜で日射病にやられて救急車で運ばれるということもありました。遊泳禁止の潮音海岸は水着の若者たちであふれかえっていました。
このロケ現場が知られればそれだけ、警備員の数が増えて見学がきびしい環境になっていきました。真琴ちゃんが言ってたけど、「ディズニーランドのパレード見学みたい」でした。かれらは、館山のまちでいろいろな足跡を残しました。町の人のスタッフに対する評判は決してよいものではなかったけれど、海都の評判が良いのは納得。竹野内さんは仕事に対して真面目に取り組んでいたと見学者の目には映りました。「そろそろだな。お前らの海は別にあるはずだ。」社長の言葉を聴く広海都は渚2号の店の前に座っていましたが、その店の板を挟んで裏側で、ぼくらは息を殺して見学していました。時間は夜の9時をまわっていたと思います。
9月17日のクランクアップのときには、また大きな台風が房総半島に近づいていました。また湿ったあたたかな南風が街を吹きぬけていきました。台風が去ったあとは、にぎやかだった浜にも静寂が戻ってきました。映画の「漂流教室」「戦国自衛隊」「ファイナルカウントダウン」にみられた嵐による時間的空間的ワープを実感したひと夏でした。嵐とともにやってきたかれらは、ひと夏同じ時間的空間を共有し、嵐とともに去っていった。まさに「異人たちとの夏」ともいえる体験でした。
▲▼▲ ビーチボーイズ▲▼▲
ビーチボーイズは当初、広海と真琴が兄妹で、真琴の学校に海都が教師で赴任してくる。真琴が海都と親しくなることに、兄である広海が黙っていないといった脚本だったそうです。もし、この内容だったら、ここまで語り継がずに消えてしまっていたんじゃないかな。BBは恋愛ものでなくてよかったんだと思います。誰もが経験する思春期のひと夏を真琴ちゃんが見事に演じてくれたし、広海都も少年の心に戻った男の友情を爽快に演じてくれました。こういうドラマだったからこそ、心にひびく名言が連発したんじゃないかな。
自分のことをいうと、広海都の両面を持っています。今の仕事は海都のようにひかれた線路を歩んできた結果だと思うけど、これまでに広海のように人生を長く休んだ経験もあります。まあ、それがあったから、今の仕事を飽きもせず頑張れるんだと思う。でも、いままで親しくしていた人が、ある日突然、自分の敵になることが、社会にはあります。人間的には友人のままなのに、職業が絡むと友人関係は隠れてしまう。社会に出たばかりの頃は、これが許せなかったけど、いまは相手の立場を理解して、そうなれば敵として全力で対抗することにしています。それが自分と家族を守ることになるからです。
ビーチボーイズには、そういう社会の醜さや拒むような堅さは登場しません。少年の心を持った若者の友情と人生の先輩、そして、恋愛手前の少女を中心に展開されました。一番輝いていたかれらが、人生の夏休みを見せてくれたことにぼくは引き込まれました。それからの生き方に興味があったけれど、スペシャルのかれらには不満です。かれらが日本に強制帰国させられたことで、振り出しに戻った気がします。
『踊る大捜査線THE MOVIE』が大ヒットを記録した時から、 続編が作られるに違いないという噂はあった。実際、亀山千広プロデューサーは別の仕事で脚本家の君塚良一氏と会うと「(続編を)どうしますか?」なんて話を時々『踊る大捜査線THE MOVIE』が大ヒットを記録した時から、続編が作られるに違いないという噂はあった。実際、亀山千広プロデューサーは別の仕事で脚本家の君塚良一氏と会うと「(続編を)どうしますか?」なんて話を時々していたのだそうだ。口ではそういっていても、続編はないだろうと思っていたらしい。2001年に織田さんに会ったとき、「やる気ある?」と聞いたら、「やってもいい」とやる気が確認されて実現したそうです。亀山さん、反町君にあったら聞いてください!
「やる気ある?」
▲▼▲管理人▲▼▲
1997年7月7日からオンエアされたビ−チボーイズは、Kenさんによりホームページが作られ、Takeさんにより引き継がれて、7年目をむかえました。ここで、Takeさんのひとつの結論が出され、ホームページの閉鎖を含めた相談のメールがTakeさんから届きました。
ぼくはいま、自分の仕事のほかに職域の会の広報委員会で広報活動をしています。2004年4月、会のトップを含む5人が政治連盟贈賄で逮捕されちゃったりして、大変な時期を迎えていました。でも、ぼくがいまあるのは、BBのこのHPに支えられている部分もあると実感しています。仕事関係の友人とは違うネットワークからできる年齢を超えた友人関係を大事にしていきたいと思っています。昨日まで知らなかった人が、訪ねてきてくれて一緒に酒を飲んだり、鮨を食べたりしていると、自分が広海都になったような感じがします。みんなより少し年上でTakeさんのようにみんなの心に入り込めないかもしれません。でも、このHPを心のよりどころとしている人やこれから訪れる人にとって、今までどうりに戻ってこれる場所であり続けたいと思い、このHPを引き継ぐことに決めました。7年が経過していて、今までのように立て続けに更新することはできないかもしれませんが、ぼくなりに先人の意向を語り継いでいこうと思っています。
ぼくがこのHPに登場したのは、もうTakeさんが引き継いでいた1999年の5月の連休あたりでした。ぼくは、たびとさんの「民宿ダイヤモンドヘッド」から流れてきました。そしてぼくをこのHPに引き込んだのは、ロケ写真に興味を持ってくれたマツタロー、タイチロー双子の兄弟さんでした。彼らがいなければ、ぼくはただの通行人でした。その後、Takeさんの意向でKenさんとikeponが副管理人として就任し、3人体制でHPつくりをしてきました。以前、この3人で神奈川県の久里浜で管理人会議を開いたことがありましたけど、この日がTakeさんとの初対面でした。優しい顔をした青年というイメージでした。この日のことは楽しい思い出です。パソコンに関しては勉強していかなければなりませんが、ぼくはKenさんやTakeさんに支えられながら、やっていくつもりです。そして、時間に余裕ができたら、また3人でやっていけることを夢見ています。いつまでもここは3人によるHPです。
いままでHPをみてくださっているみなさん、Kenさん、Takeさんのあたたかい路線を変える気はまったくありません。若葉マークの管理人ですが、がんばりますので、今まで通りのご支援よろしくお願いいたします。
2004.5.6. ikepon
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