旅立ち |
順風なエリート人生を捨てて海都を旅立たせたものは、たぶん広海でも勝でもなく、海でもない。海都自身の中に元々あった何かが、それらによって触発されたのだ。 海都がまだ、あまり皆ともなじまない「客」だった頃、ひとりで海を見ている海都に、 勝の視線が注がれていた。 (やれやれ、この男はいったい何があってここに来たんだか・・)というような、見守る温かい目だった。 会社のプロジェクトの失敗も成功も、彼自身の内奥に眠っていた「海」を、少しずつ意識の上に 浮上させるきっかけになっただろう。 初めの頃、海都はよくひとりで遠くを見ていた。 ベランダから遠くを見ながら、心の奥で、ほんのわずか、何かの風向きが変わりはじめる。遠い海風が吹くのを かすかに感じるように。ビルの隙間から見えた小さな太平洋の断片に、彼は立ち上がる。 完成したプロジェクトの結果待ちの時には、公園のフェンスにもたれて東京の海を見ていた。腕の時計に目を落とし、 再び顔を上げて海を見る。 こうして、変容するための夏が始まった。 ビジネスマンスーツを脱ぎ捨てて、しだいに、殻を割って鳥が飛び立つように、生身の海都が現れる。 夏の終わりの海都は、あの取っつきにくい客だった頃とは別人のようになっていた。 「俺はさ、俺はあんたを見ていたかったんだよ!」 従業員部屋で、まだ一歩踏み出せないでいる広海に、海都は自分の気持ちをぶちまけた。 「・・だから俺もね、俺も、経験してやろうと思ってさ。正直言うと、すっごい怖かったよ、俺。 だって、全部ゼロんなっちゃうんだからさ、でも今だから言えるんだけどさ、それはそれで良かったと思ってるよ。 もう何があっても怖くないし、いつだってゼロからやり直せる自身あるしさ、俺。」 広海にすべてをさらけ出して与えるように、海都は自分自身をも決める。 この最後の一押しが、広海を翌朝海へ向かわせる。 この夏、誰よりも大きく成長し、変容していったのは海都だった。 夜、海都は桜に電話した。彼には帰るところがある。次の旅に出るまでの短いひととき、しばし憩える場所が待っている。 「帰る・・・夏休みは終わり。」 最後の日、別れ際に車を停め外へ出て、二人は少しばかり言葉を交わした。 「・・じゃあな」「ジャ!」 これで二人はそれぞれの道へ別れて行く。振り返らずに。 * * * * * 「俺の最新作、聞きたい?〈俺の海〉ってやつ。」「バカじゃん・・・」
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